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「ふぐ」のうんちく

明治時代以降、ふぐが私たちの生活に浸透するまで

– 明治時代以降、ふぐが私たちの生活に浸透するまで –

「ふぐ」と聞いて想像するものはなんでしょうか?毒、下関が発祥、美味しいふぐ料理などを浮かべる人も多いでしょう。ふぐが私たちの生活に浸透するまでには歴史がありました。そこで明治時代から現代まで、ふぐがどんな歴史をたどってきたのかをまとめてみました。これを読んでふぐへの関心を深めれば、ふぐ料理への楽しみもまた増えるでしょう。


ふぐの毒についての歴史

ふぐに毒があることはよく知られています。実はこの毒には名前があって、それを命名したのは日本人です。

 日本でふぐの毒について研究されはじめたのは1887年ごろから。1909年には薬学博士である田原良純が、ふぐの卵巣からふぐの毒を取り出すことに日本人初として成功しました。田原はこの毒に「テトロドトキシン」と名前をつけます。「テトロド」はふぐ科の学名、「トキシン」は毒という意味の由来があります。その後も田原は「テトロドトキシン」に鎮痛効果があるなどの発見をしましたが、食中毒になった場合の治療法や解毒方法についてまでは分かりませんでした。現在では、ふぐ料理を安全に楽しむため、ふぐの調理には資格を必要としています。食中毒にならないために自宅での素人調理は避けるように呼びかけられています。現在、大阪府岸和田市に「ふぐ博物館」がありますが、この博物館はふぐ中毒絶滅を目的に1964年に建てられました。設立者は長年ふぐ料理店を経営し、ふぐ博士とよばれていた北濱喜一です。1954年にできた日本ふぐ研究会によって提供されたふぐの調理資料やふぐの骨格標本などが置いてあります。こうした活動によって一般の人のふぐ中毒への意識は高まり、食中毒の被害者は減ってきています。


ふぐの漁と養殖についての歴史

ふぐの漁法には一本釣りや網漁などがありますが、中でも主流なのは延縄漁(はえなわりょう)。ふぐの延縄漁がはじめて行われたのは、明治時代の山口県周南市粭島でした。延縄漁とは長いロープ(幹縄)に複数の短いロープをのれんのように付け、その先端に釣り針や疑似餌をつけて獲る方法です。こののれんのようなものを延縄といいます。延縄を漁場に仕掛け、ふぐが食いつくまで放置した後引き揚げます。延縄漁のメリットは、獲りたい魚だけをピンポイントでつかまえられること。そのため漁業資源を守ることができる優しい漁法だといわれています。デメリットでは延縄の準備から引き上げまでに手間がかかることです。しかし現在では機械が導入され、全ての工程が自動化されつつあります。1匹ずつ釣り上げる延縄漁がふぐに向いているのは、ふぐは他の魚とぶつかり合ったりすると弱ってしまうからです。しかし延縄漁には問題点もありました。それは鋭い歯を持つふぐがロープを噛み切ってしまうことです。高松伊代作をはじめ、当時の漁師たちは縄のところどころにカタガネとよばれる針金を使うことに決めました。この作戦は成功し、1922年には平和記念東京博覧会で賞をとっています。周南市粭島には「ふぐ延縄発祥の碑」が設置されています。
1964年ごろになるととらふぐの養殖がはじまります。とらふぐといえば、ふぐ刺しやふぐ鍋で食べたことがある人もいるでしょう。山口県で稚魚の生産に成功しますが、最初は安定せず、1980年ごろになってようやく東シナ海や太平洋、瀬戸内海での海上養殖がさかんになりました。これに加え、最近では陸上養殖もさかんです。飼育層の中で養殖していくため、自然災害や海水温の影響を受けにくいのがメリットです。最近では約4000~5000トンの養殖とらふぐが生産されています。


ふぐ料理が浸透するまでの歴史、ルーツは山口県下関市

ふぐ料理が私たちの食生活に浸透しているのには歴史があります。ふぐの歴史は古く、縄文時代から食べられていました。江戸時代になってふぐの集団食中毒死が発生。豊臣秀吉が「河豚食用禁止の令」を出したのが、ふぐ食で初の取り締まりです。

しかしその間も下関の人はひそかに食べていたとの話もあります。この禁止令は明治時代まで続いていたのですが、1887年初代内閣総理大臣であった伊藤博文によって解かれることになります。その時、伊藤博文は自らが名付けた春帆楼という下関の料亭にいました。伊藤は春帆楼の女将に下関で一番美味しい魚を出してくれるよう頼みました。しかし、当時海は大しけの状態で魚は全く獲れておらず、出せる魚はありません。女将は悩んだあげく、打ち首に罰せられるのを承知でふぐを出しました。するとそれを食べた伊藤はあまりの美味しさにひどく感動。「こんな美味しいものを禁止してはならない」ということで1888年に当時の山口県知事、原保太郎に山口県限定でふぐ食の禁止を解くよう命じました。全国で禁止令が解かれたのは太平洋戦争後になります。こうして春帆楼はふぐ料理公許第一号店として有名になっていきました。春帆楼はその後も1895年の日清講和条約の締結会場となったり、昭和に入ってからは天皇陛下も訪れたりするなどふぐ料理を楽しめる料亭として定着しています。時がすすむにつれ、春帆楼は全国展開し、百貨店やホテルに出店しています。「ふぐの本場といえば下関」と言われるのにはこのような歴史があったのです。
ふぐ料理が親しまれるようになってから100年以上たってもふぐの有毒問題は課題です。ふぐ調理の免許制度は都道府県ごとに設けられているだけに、自治体によって基準がバラバラなのが現状です。例えば、条例が厳しめの東京都では2012年に、ふぐの免許所持者がいなくても、有毒部分を取り除いたふぐなら調理や販売ができるよう許可しています。現在、免許を統一する活動も行われているところです。下関ではふぐ食が解禁されてから130年目の2018年に「ふく食解禁130年キャンペーン」が開かれます。全国にふぐを広めるため、ふぐの歴史をアピールしたり、ふぐの記念メニューを出したりするイベント内容です。明治時代以降からふぐ食は順調に広がりを見せています。

歴史を思い浮かべながら食べよう。安全で美味しいふぐ料理。

ふぐ食が現在当たり前に食べられているのには歴史上の人々の活躍がありました。ふぐ料理が好きな人にこそふぐの毒についても知っておく必要があります。毒があるにも関わらずふぐ料理が愛されているのはやはりその美味しさでしょう。歴史を思い出しながらふぐ料理を食べれば、より味わい深さを感じるのではないでしょうか。